超現代語訳

川上村の吉野林業を学ぶ

これからの時代に活かせることを、
川上村と吉野林業の歴史に学びます。

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2020.5.4

■「川上村史 通史編」に学ぶ (32) 
晩年の土倉庄三郎

土倉庄三郎が亡くなる約10年前の明治41年(1908年)に妻 寿子が病死、続けて明治44年(1911年)に長男夫人 容志子も38歳の若さで亡くなり、6人の孫が残ります。(後妻の間にも6人の子女ができています。)

庄三郎は川上村大滝にて残った孫たちを引き受け、厳格な教育と躾を行いました。

履物を揃えるとか、神仏へ参ずる作法とか、日常の挨拶なども折目正しく教え、本を読み聞かせる時にはキチンと座り、膝に手を置いて聞かされたので窮屈で楽しくなかったそうです。男子には散歩に連れ出して、それとなく杉桧苗の育て方や山林の枝打ちを指導しています。

山歩きのついでに蔦のまつわった木を見つけると、他人の山でも入って蔦を切らせ一本の木の回生を喜びました。苗植えの人夫には活着状態を調べさせたり、木の生育の肥料は根元に置く下草であると草刈りを入念に指導するなど、最後まで山のことを思っていたようです。

そして大正6年(1917年)7月19日、78歳でこの世を去ります。病名は髄性肝臓がん。生前、ほとんどの村民が庄三郎の重態を聞くと家業をやめ神仏に祈ったといいます。葬儀の当日には葬列が邸宅から墓まで続き、列に入りきれない人々は土倉邸の周囲を囲んだそうです。
川上村の吉野林業と土倉庄三郎
参照:「川上村史 通史編」歴史編第十二章 土倉庄三郎抄伝

画像:阪本基義氏提供 (洋装の土倉庄三郎夫妻)

 

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ひとまず「川上村史」の土倉庄三郎を辿ってみましたが、どんどん興味が溢れる人物です。さらにいろんな書物で深掘りしてみたいと思います。また、吉野林業と重ねて広く知ってもらえるようにも努めてまいりたいと思います。


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