川上村と吉野林業

川上村の歴史

室町時代からはじまった、日本最古の造林地、川上村の吉野林業。

概要

古事記にでる山幸彦の村、川上村。有史以来、霧深きこの地域は、秩父古生層の広がる山林地域で、まさにこの自然風土が吉野地域の山林を育んできました。また、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は世に広く知れた山岳宗教の聖地です。中世のころ、まさに密教を中心とした修験道信仰が盛んになると、吉野地域にも巨大な寺院が建てられ、周辺の天然林が利用され始めました。そして、この後、川上村から吉野林業が始まっていきます。

歴史

1500年頃
 日本最古の人工造林

室町時代を迎えると、木材需要の高まりにより、川上村の先人は山畑に植林をするようになり、農業の傍ら林業を始めたといいます。世界の林業の中では、ドイツが人工林として最古であると学術的な裏付けがありますが、日本では、この1500年頃、これが、書物として記録に残る「日本最古の造林地、川上村・吉野林業」の起源です。その苗が、天然林による実生苗説、高野聖が持ってきた高野杉の杉苗説、春日大社の春日杉説といった、諸説がありますが、明らかにいえるのは、川上村から吉野林業が始まり、そこに500年の歴史があることは、証明されているということです。

日本最古の人工造林

16世紀
 大阪城・伏見城の築城に貢献

戦国時代を経て政権が安定すると、全国において木材需要が拡大されました。特に、吉野川を下り、都市部へと運ばれた吉野材は、建築用材として重宝され始めました。その頃、大阪では木材問屋や木材市が開かれ、山深い土地、川上村から都市部へと、広大な吉野川を伝って、筏組みをした木材が運ばれる手法は江戸時代より確立されていました。そして、あの名将豊臣秀吉が築いた大阪城、伏見城にも吉野材が用いられたといいます。

大阪城

18世紀 樽丸林業のはじまり

江戸時代の中期、町人文化が熟成されると、川上村・吉野地方では樽丸の生産が本格的に広がります。樽丸は、醤油樽、味噌樽といった樽の用材として使われ一気に需要が拡大しました。特に、樽材に節があると水が漏れるため、節の少ない「無節」の材を生み出し、年輪幅がほぼ一定で密である材が好まれるため、そのための育林方法を独自に生み出してきました。「密植」「多間伐」「長伐期」という独自の技術によって色艶が良好で、香りのよい、そして、美しき吉野材を生み出してきましたが、その手法は、まさに、子供や孫を育てるのと同様で、川上村では育林のことを、撫でるように育てるといい、「撫育」ともいいます。

樽丸林業

川上村の水、土、そして、技。

ここ川上村は、良質な木材を育むには最適な土地です。栄養の少ない土壌と冬の厳しい寒さの下で、豊かな水の恩恵を受けつつ長い年月をかけて成長した木材は、その独特な技術により、緻密な年輪を残します。さらに、畑のような感覚で大切に世話された木々たちはやがて、節のない、通直完満な木材へと姿を変えます。それは、受け継がれてきた技術と自然風土との両輪が為せる所産です。特に、川上村の吉野杉の源平(赤い部分と白い部分の両方)を使った樽丸は、内側は緻密な赤身で腐りにくく、外見は美しい最高級な樽丸として重宝されました。これが、樽丸林業といわれた吉野林業の所以であり、この樽丸の活躍により「吉野材=樽丸」として広く知られる事となります。

19世紀
 山守制度のはじまり

江戸時代中期から後期になると、山林の森林資源が減少し始めます。村に課せられる税金は大きなもので、村民たちには造林地を維持するだけの資力が不足していました。この時、川上村で生活を営む人々は、伝統あるこの山の資源で生き残ることに賭け、この土地の林業を存続させるために、村は有力者に林地を売却し、借地林業・山守制度を導入しました。 資本と経営の分離といった手法は、まさに当時からすると先進的であり、この独特の制度により、川上村を中心とした吉野林業では、「山の土地を持つ者と、その山を管理する者」つまり「山主と山守」の深い信頼関係によって、ここ川上村の山林資源は何代にも渡って守り育まれ、継承されることとなります。

山守制度

20世紀
 樽丸から再び、
建築用材としての吉野へ

吉野では、大正期に東吉野村小川にて人工絞丸太「小川絞」が創始されました。その後、昭和期を迎えると、樽丸に代わって再び、建築用材としての吉野材の需要が高まります。特に、輸入木材に対する対抗とし、木目の美しい用材として和室空間にあう吉野材の用途が拡大され、この地で継承されてきた育林の技術はそのまま受け継がれました。吉野・川上村林業の伝統を象徴する「密植、多間伐、長伐期」によって、大切に育てられた木々たちは、木目の細かく節のない、美しい吉野材として今日まで守り引き継がれています。

建築用材

林業需要が減少していく昨今、川上村ではこの歴史と技術を活かし、過去500年の歴史と先人の想いを今後の500年の歴史として紡ぐためにも、「習いは古きに、創意は新しきに」という理念のもと、時代に合わせた施業技術や搬出方法の開発、新しい山林経営の手法の確立、また新たな需要拡大に向け、平成27年に、林業・木材業の関係団体による林業再生推進組織「吉野かわかみ社中」が創設されました。

年表

時代 年代 西暦

川上村・吉野林業に関する出来事

室町時代 明応9年 1500年頃

・川上村で人工造林が始まる。(明治期 吉野林業の技術書『吉野林業全書』より)

・木材の筏流し時代となる

安土・桃山
時代
天正14年 1586年

・豊臣秀吉が吉野地方を直接領有。吉野杉が大阪城や伏見城の築城などに用いられる。

江戸時代 慶長5年 1600年~

・徳川幕府の直領となり、本格的な植林が始まる

・借地林業、山守制度が導入される

享保5年 1720年

・樽丸製造が始まる

・吉野材の販路拡大

文久2年 1862年

・箸の製造を開始

慶応年間 1865年頃

・全国的に大濫伐が流行しかし、川上村ではその風潮に乗らず高齢林が維持された。

・木材需要の増進、材価高騰

・村外者の山林所有者の増加

明治時代 明治10年 1877年

・材木価格の高騰 高齢林はやや減少するが、一方で再造林は確実に行われ、さらに天然の雑木林は林種転換され、檜・杉の人工林が拡大される。

・スギの林地乾燥が行われる(3ケ月間)

明治31年 1898年

・「吉野林業全書」刊行 土倉庄三郎の造林技術が継承される。

大正時代 大正4年 1915年

・東吉野村小川にて人工絞丸太 「小川絞」が創始

・この頃ほぼ現在の大山林所有形態になる。

・索道による集材が始まる。

昭和期 昭和3年 1928年

・樽丸太生産最盛期を迎える

昭和14年 1939年頃

・吉野貯木場の開設

昭和15年 1940年

・樽丸から柱角に生産目標が移行する。 この頃磨丸太生産が最盛期を迎える。

昭和26年 1951年

・樽丸から柱角の短伐期へ(昭和15年)

昭和29年 1954年

・筏流送が終わり、トラック輸送となる。

・山守の素材業への進出が増える。

昭和45年 1970年

・檜箸の製造が開始される

昭和55年 1980年

・ヘリコプター集材が始まる。

・吉野材のブランド化を進める。

昭和60年 1985年

・檜、杉の集成材単板の製品化時代を迎える

平成 平成10年 1998年

・3月に冠雪害を被り激甚災害指定を受ける

平成12年 2000年

・9月に発生した台風7号により激甚災害指定を受ける

平成14年 2006年

・「川上さぷり(川上産吉野材販売促進協同組合)」設立

平成26年 2014年

・林業再生会議 設立

平成27年 2015年

・吉野かわかみ社中 設立

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