超現代語訳

川上村の吉野林業を学ぶ

これからの時代に活かせることを、
川上村と吉野林業の歴史に学びます。

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2020.11.25

■「川上村史 通史編」に学ぶ (33) 
(戦国時代と川上村) 筒井順慶の大和統一

戦国時代ものが好きでNHK大河ドラマ「麒麟がくる」を毎週楽しんでおりますが、ドラマや映画では出番の少ない筒井順慶がしっかり描かれています。鶴瓶師匠の息子さんもとてもうまい。

さて、「川上村史 通史編」にドラマの内容と同じような時代の記述がありましたので、少し触れてみようと思います。期待したほど川上村は絡んではきませんが・・・。

以下、「川上村史 通史編」の記述より

 

『戦国時代の川上村(1) 筒井順慶の大和統一』

室町幕府の将軍の権威がすたれ、三好長慶が管領 細川晴元を退けて実権を掌握します。その長慶の陣営では松永久秀が京都・堺の代官として畿内に勢力を伸ばし、やがて余勢をかりて大和国へも勢力を伸ばしてきました。

久秀は信貴山城を築いて大和の武士を従え、永禄三年(1560年)には奈良へも侵攻、その北郊に多聞城を築いて大和国を併呑しようと図ります。

永禄八年、三好長慶が死亡。この好機に松永久秀は三好三人衆と結んで将軍 足利義輝をほふったのです。そののち、久秀に対して三人衆が反目したので筒井順慶はこれに近づき大和や河内国内で松永勢と戦います。久秀がいったん順慶の本拠地である筒井城を攻略するも、順慶は大和各地の同盟勢力を頼って転戦し、三好三人衆の後援もあり翌九年に筒井城を奪還しています。

永禄十年十月、順慶は東大寺に陣所を敷いて三好三人衆とともに多聞城の久秀に抗戦しますが、久秀により大仏殿を焼き討ちされています。

翌十一年(1568年)、尾張国に身をおこした織田信長が天下統一の野望を抱いて入京すると、さっそく久秀はこれに臣従したので大和の代官に任じられました。やがて信長と将軍 足利義昭の間に仲違いがおき、元亀二年(1571年)、久秀は信長に叛旗をひるがえします。

このとき順慶は信長に加担し、天正元年(1573年)、信長・順慶の連合軍は多聞城を攻略し久秀は降参、信貴山城にて信長の一武将となって働きます。しかし再び、同五年に久秀は越後国の上杉謙信と手を組み、信長と雌雄を決しようと信貴山城に立て籠ります。信長・順慶の連合軍はこれを攻めたて、久秀を自害に追いやりました。

これより先、多聞城は信長の武将佐久間信盛、明智光秀、柴田勝家、細川藤孝が順次交代で城番となって大和国ににらみをきかせます。天正三年(1575年)になって原田直政が大和国守護となったが、翌四年、大阪石山合戦にて戦死したため後任に順慶が任じられることとなり、順慶は宿願を遂げることができました。

川上村の吉野林業と土倉庄三郎


参照:「川上村史 通史編」歴史編第三章

 

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写真は筒井順慶が大和郡山城の詰め城として大改修を行った「高取城」です。

記述にある筒井城(現在の奈良県中央卸売市場の近くにありました。)も含み、信長が「大和一国破壊命令」を出し郡山城以外はいったん廃城とされましたが、本能寺の変の後に本格的城塞として順慶が改めています。

筒井城、多聞城、信貴山城、高取城・・・今は城址として形は残っていない城ばかりですが、奈良の歴史には重要なところばかりです。城や周辺施設の建設となれば、たくさんの木材が使われたわけですが、吉野材はどう使われたのか、深堀りできる資料はないものかと探しています。

 

織田信長の命令で一旦廃城にされた高取城は、本能寺の変での信長の死後、筒井順慶が大改修を行いました。明治の版籍奉還で結局廃城となりましたが石垣や石塁はきれいに残っています。

天気が良いと、本丸跡から望む吉野の山々はいつもと違う雄大さに息をのみます。

少し遠くに見るのもたまには良いものです。


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