2023.8.24
■「吉野林業と優良材」に学ぶ (77)
明治時代の吉野林業④
―明治時代における育林技術-
明治時代の吉野材は90%が筏流による搬出だったため、全体の産出量は筏流下量(表38)によって推定できる。
明治初期には筏36,000床~61,000床、材積量にして50,000~80,000㎥の木材を産出している。さらに明治20年~30年代には63,000~88,000㎥とわずかに増大している。
その産出額は、明治31年には吉野五郷(※1)121万円、十津川郷15万円、北山郷23万円、三郷40万円の合計199万円(吉野林業案内)。同年、奈良県庁筏関係一件綴に記載された内容では、吉野材産出総額は137万円、その内訳として丸太65万円、角材31万円、板類6万円、薪材3万円、榑3万円、樽丸24万円、銭丸太床柱1.8万円とされている。
これらの産出木材は、その大部分が吉野川を筏流しで和歌山へ搬出され販売されていた。
※1:明治30年頃の物価と現代の物価を比較した場合、現在の物価は当時の3,800倍に相当すると考えられています。
参照:「吉野林業と優良材 (岩水豊 著)」
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現在の産出量と比較すると、この時代から約8分の1に激減しています。取扱価格についても3分の1といった数字が出てきます。
当時からすれば木材に対するニーズは大きく変化し、使われ方も進化し続けています。最盛期と同等と言わずとも、木材産業の復活にはまだまだチャンスが転がっているはずだと信じています。