超現代語訳

川上村の吉野林業を学ぶ

これからの時代に活かせることを、
川上村と吉野林業の歴史に学びます。

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2021.2.20

■「吉野林業全書」に学ぶ (90) 
川路浚渫の方法⑤

奈良県内では「吉野川」、和歌山県内に入って「紀の川」という同一の川で二つの名称がある。(現在もそのまま呼称されています。)

慶長年間(1596-1614年)までは水路の浚渫は行われていなかったが、慶長以降、吉野川筋では工事が始まり、寛永年間(1624-1644年)に下市を経て飯貝前まで進み、寛文年間(1661ー1673年)には東川字滑から西河音無川出合字別当淵(いずれも川上村内)まで進んだ。

その頃、万治三年(1660年)より寛文三年(1663年)までの四年間で川上村大滝の岩石を切り割って、川上村高原前を通り川上村井戸鍛冶屋淵に進み、延宝八年(1680年)には川上村和田大島に達した。
川上村の吉野林業と土倉庄三郎
当時の川浚え工事は容易ではなく、奇岩怪岩が水路の中流に横たわっていて、一つの岩石を取り除くだけでも数十人の作業員を要した。ろくろを使って挽き取り、大量の薪炭に油をかけてこれを焼き、ゲンノウとノミで割って取り除いたのである。浅い所にある岩石は掘り出すか堰を作るなど工夫をこらした。

その後、元文年間(1736-1741年)には川上村伯母谷川出合字長殿まで、宝暦三年(1753年)には川上村入之波まで工事を進めた。

実に数百年の長きに渡り、苦労と労働力、巨額の金を費やして、吉野川の本流入之波より紀の川和歌山港に入る筏の水路を完成させた。

近年、明治二十六年に土倉庄三郎が勢州領(三重県)御料林の払下げを受け、その材木の出材の為、入之波から上流の谷川字筏場までの大川浚え工事を行い、遂に吉野川の水源にまで達した。

川上村の吉野林業と土倉庄三郎


参照:「吉野林業全書」

 

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※写真は「大滝割滝」周辺です。大滝ダムが完成しまったく当時のままというわけではありませんが、ノミと槌で削り割った跡は、岩に今も残されています。


ノミと槌で川の岩石を割って水路を切り開く・・・、何度聞いても凄まじい工事ですが、土倉庄三郎が吉野林業の発展のため執念でこじ開けました。

力強く信念を貫く姿勢は、精神論と揶揄されるものではなく、今も昔も大切なことだと思います。


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