超現代語訳
川上村の吉野林業を学ぶ
これからの時代に活かせることを、
川上村と吉野林業の歴史に学びます。
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2020.3.28
■「川上村史 通史編」に学ぶ (17)
土倉庄三郎と板垣退助
自由民権運動が活発化し野党の自由党総理であった板垣退助が、明治15年(1882年)、岐阜市の演説会場で一青年の刀傷にあい叫んだのが、『板垣死すとも自由は死せず!(吾死スルトモ自由ハ死セン)』です。
こんな有名な言葉の後にも、土倉庄三郎の名が現れます。
当時、憲法調査の為、政府中枢である伊藤博文が渡欧したのに対抗して、自由党副総理 後藤象二郎から、野党側にも西欧先進国の憲法や議会政治を研究する必要がある、さらには、その外遊費用の調達に自ら成算があると、板垣に海外渡航をたきつけます。
しかし、この費用の出所が政府側からの買収工作との疑念を持たれ、自由党内部や対立する大隈重信から攻撃を受けることになってしまいます。
後藤のいう費用の出所を疑い政府筋からの出資を避けた板垣は、これを土倉庄三郎にすがったのです。庄三郎は洋行費2万円余り(現代の価値で約2億円)をポンと払いました。
後顧の憂いなく渡欧できた板垣が、帰国後はるばる川上村大滝を訪ねて謝辞を述べたことは、村民に語り継がれています。
参照:「川上村史 通史編」歴史編第十二章 土倉庄三郎抄伝
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まだ土倉翁マネーが唸る逸話は続きますが、全て土台には吉野林業の隆盛があるわけです。
土倉庄三郎の軌跡をたどり始めて少し林業の話から逸れてしまっていますが、自身の信条を貫きつつも「守不移」(庄三郎の座右の銘。移らないことを守る、他所へは移らないという意味。)で、川上村と林業に尽くした姿は偉大すぎます。