超現代語訳

川上村の吉野林業を学ぶ

これからの時代に活かせることを、
川上村と吉野林業の歴史に学びます。

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2020.7.12

■「伊藤明瑞」という人 (2)

さて、伊藤明瑞について色々と噂とおぼしき情報を聞きながら、最終的には川上村教育委員会の教育長から明確な資料を頂くことができたのでした。
川上村の吉野林業と土倉庄三郎
昭和59年に川上村で開催された「~郷土が生んだ名書家~ 伊藤明瑞展」の資料です。そうです、伊藤明瑞は川上村に深い関係のある人物だったのです。

父・宮本重作、母ムメノのもとに和歌山県で生まれ、本名は宮本正雄門(まさおと)ですが、6歳の頃に、父・重作の故郷である奈良県川上村西河に帰り、父の弟・伊藤庄一郎に復籍同居し、「伊藤」となったようです。

書については2歳の頃に漢学者 南海鉄山に入門しており、すぐに頭角を現します。そして3歳の時に、当時の堺県知事 高崎正風に書を披露したことが契機となります。「これこそが神が与え給うた生まれながらの神童だ」と高崎は絶賛し、東宮御所や伊藤博文に紹介したことで、6歳の時に明治天皇御前にて書を披露することとなったのです。

時の総理大臣 伊藤博文が明瑞の教育の世話を引き受け、書生としたのも明瑞の聡明ぶりに加えて、同じ「伊藤」姓が気に入ったからだとか。

御前で披露された書に感心された明治天皇より日本明瑞を賜名し、その後、伊藤博文が「伊藤」姓を名乗ることを許して「伊藤明瑞」としたという話の流れには川上村が抜けているのでしょうか。(ここ、わかりません)

また、伊藤博文に明瑞を紹介したのが高崎正風とあるので、土倉庄三郎はあまり関係ないのかなと思いましたが、この年代の川上村で関係ないわけがなく、8歳の頃に「庄三郎の書記を務めていたようで、その際の書も残されています。(両者はしっかり出会っていました!)

そして、当時の川上村民の皆さんにも多くの書を残していました。(かなりの数です。)そのお披露目が昭和59年の展示会だったようですね。

まだまだ語りつくせない人物なのですが、13~14歳に兵庫県明石市に転居してからは、神童の面影は薄れていったとされています。(昭和23年59歳で亡くなっています。)
川上村の吉野林業と土倉庄三郎
それにしても、すごい方が川上村にいたものだと、またひとつ胸を張れることが増えました。会議室の書もたまには磨かなければいけません。

最後に、とても長くなってしまったのですが、会議室に飾られた書の詩には続きがあります。

善 万 物 之 得 時
感 吾 生 之 行 休

万物が春の良い時節を得て、幸福そうな様子を私も喜ぶが、
私の一生はだんだんと終わりに向かっているのを感じる。

神童の面影が薄れてしまった頃に書いた書だったようで、この詩のような思いがあって、この続きが書かれていなかったのかは今となってはわかりません。


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