超現代語訳
川上村の吉野林業を学ぶ
これからの時代に活かせることを、
川上村と吉野林業の歴史に学びます。
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2020.3.15
■「川上村史 通史編」に学ぶ (14)
土倉庄三郎の水路開発
土倉庄三郎は明治2年~3年(1869年~70年)頃に、吉野川と沿道の水陸両路の開発を進めます。(近世中期には筏流送路自体は開通していますから大改修となります。)
吉野川の難所を和田村(現在の川上村北和田←かわかみらいふ本社があります。)から宮滝まで延長30㎞余の間の岩石を削り、河底をならし筏を通りやすいようにするのです。俗に「川さらい」と呼ばれているものです。
もちろん当時にあっては鑿(のみ)と槌(つち)を主とする工作で、その困難さは言うまでもなく約2年の日数と膨大な資金を必要としましたが、この費用のほとんどを庄三郎が出資しています。
筏(いかだ)は上流から川上村東川までが上乗り、川上村東川から吉野町飯貝までが中乗り、以下、和歌山までが下乗りと言われ、筏夫は大正初期の盛時には100人規模に達していたようです。
この開発は村民の利便性はもちろん、山林や出材の経済価値を高めるものとなりました。
参照:「川上村史 通史編」歴史編第十二章 土倉庄三郎抄伝
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そして現在の川上村。これを書いた令和2年3月15日は、原木市への出材のためヘリコプターの音が響き渡っていました。
ほぼ平地のない急峻な川上村の地形は良材を生み出す地形でもあり、遥か昔からの出材手段に試練を与える地形でもあります。