土倉庄三郎

軌跡
Locus

天保11年
吉野川上流の地に、土倉庄三郎生誕。

吉野川流域の材木商人たちは、川下の紀州藩と利益配分などの交渉をしており、材木商人の組織である材木方の総代が大きな実権を握っていた事は間違いない。その材木方総代は、吉野林業地で最も多くの材を搬出する川上村から選出される慣習があり、この習わしによって商売人達の間で平穏が保たれていた。

しかし、庄三郎が川上村大滝郷の材木方総代に就任して間もなく、「宇兵衛騒動」と呼ばれる一件が生じる。
ある人物が代官所と提携して、材木方たちの習わしを崩そうとしたのである。

しかし、その人物の不正を暴き自らの政治力によってこの騒動を解決してみせたのが、当時わずか16歳の土倉庄三郎。はやくも彼はこの時から、林業家として、そして明治期の政治を支えた人物として、その才能を見せ始めたのである。

吉野林業を支える木材産地、吉野郡川上村。この地の山々は、山林家と山守によって先祖代々引き継がれてきた。そして、川上村の大山林家のうちの一家、土倉家の三男として生まれたのが、後に「日本林業の父」と呼ばれる土倉庄三郎である。

山林家の息子として生まれた彼は、15歳で伐採した木材を運搬する際の監督役「吉野材木方」に主任する。

吉野川の上流、貯木のまち吉野を越えさらに進むと、川上村にたどり着く。山深い地の資源を川下まで届けるためには、整った道が不可欠である。
そう考えた彼は、山林の評価額の1/20を道路建設の為に出資するよう、沿道の地主を説得して回った。その活動は「青山二○分の一」と呼ばれ、また、庄三郎自らも莫大な私財を投入して、この山深い地に長い月日をかけて、道をつなげていったのである。

山深い地から
山林資源を運び出すために。

日本の春、吉野山の桜。

明治期に入り外交を再開した日本に、これから必要とされるものは何か。吉野山の桜景色は、日本の四季を象徴する一つのアイデンティティである。
彼が守り後世に引き継いだこの国の資源は、吉野杉だけではなかったのだ。
生涯に渡り、この国の風土で育まれる資源の活かし方を追求したのである。

庄三郎の活躍は、林業の世界だけに留まらなかった。
彼は生涯を川上村で過ごしたが、常に外の様子に耳を傾け、この国のあり方を見つめていた。
日本でもまだ薪でエネルギーが賄われていた頃、次第に発展する時代の中で、吉野山の桜の木々にも伐採の話が持ち込まれた。その時、庄三郎は、吉野山の木々を全て自腹で買い取ってまで、それの計画を阻止したという。

彼の父、庄左衛門もまた山林経営に熱心な人物であった。
厳しい父に連れられ幼い頃から山に入って学んだ彼は生涯をかけて、吉野地方に伝承される「密植」や「撫育」の技術を追求し続けた。

日本全国へと伝承された「土倉流。」

そして、自らが研究した造林育成の技術を全国へ伝え、造林を実践して周った。特に静岡県の天竜川流域、群馬県伊香保、滋賀県塩津、奈良県西吉野、兵庫県但馬には、庄三郎から学びを受け丁寧に守り育てられた山林が、今でも継承されている。

山林王、土倉財閥として
~ 自由民権運動と同志社大・日本女子大の設立 ~

他にも、山形有朋、井上馨、伊藤博文、大隈重信、その他明治の元勲たちは皆、険しい峠を越え「土倉詣で」をするため、川上村を訪れた。同志社大学の設立の際も先頭に立って新島襄の活動を支援した。
当時まだ人々に認識されていなかった「女子教育」についても大いに賛成し、日本女子大学校の設立を支えた。
吉野山の桜についてと同様、先祖から引き継いだ財力を基にして、日本の将来への基盤を築いたのである。

吉野林業地の山林王、土倉家の財力が桁外れであったことは、想像に容易い。その財力について今なお語り継がれている訳は、彼が私財の使い道について、己の信念を貫いたからではないだろうか。
彼自らの財産を3等分し、国、教育、事業の為に1/3ずつ、私財を世の中へ還元するといったポリシーの下で、明治期の日本の成長を支えた。板垣退助が牽引した自由民権運動も、その台所は大和にあったと言われる。

本来、日本には山とともに生きる民がたくさんいた。豊かな森を育てる技術は、すなわち生きる術と直結していたのである。そのような暮らし方がまだ根強く残っていた、明治31年(1898年)ついに日本全国の林業家のバイブルとなる『吉野林業全書』が出版された。

日清戦争後、日露戦争前の時期である。この時期に、吉野の地形について、木々の成長に合わせた施業方法、林業道具のイラストなど、重厚な内容が全450頁に渡って記されている。

吉野林業全書と庄三郎

彼はこの本の刊行にあたり、自身の人脈を発揮した。より多くの人の目にこの技術が触れるため、題字や序文に大立者の名が並ぶよう尽力したのである。そして彼自身も校閲に名を連ね、出版費用を援助した。

土倉庄三郎は、吉野林業の技術を後世へと伝承し、素晴らしい資源が利用される為の仕組みを残したのだろう。
彼が残した数々は、川上村の地に留まらず、日本全国の木材産地へ、そして、政治、教育の世界で今もなお、その魂を宿しているのである。

歴史は今も受け継がれる。